農業や田舎暮らしなどを通じて 地方と都会との交流を目指しています

古老の話、民話

◇浜辺の水神塔

市木川の河口近くには水神塔があります。河口に積もった浜砂利のため海水が逆流し集落・
田畑を水浸しにしました。こうした自然災害から守るため水神塔・三重塔が新旧五基建ってい
ます。うち一基は昭和59年に再建されたものです。自然(水・火・風・山・海など)は私たちに恵
みを与えてくれますが時には災害ももたらします。そこで祈ります。今は人間の力(経済・技
術・ 行政など)だけで、すべてを解決しようとして、祈りの心を忘れているように思えます。
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◇市木の一里塚

市木に一里塚があります。正徳2年(1712年)熊野街道に一里塚が決められました。市木一里
塚は旧街道を挟んで海側と山側にあり、ともに大小の松や雑木が茂っていました。現在の「史
跡市木一里塚」という標石は昭和43年(1968年)山側の塚のあった所に建てられたものです。
一里塚は旅人の休憩所であり、車馬賃算定の基準になった所でもあったと言われています。
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◇雲揚艦遭難跡

阿田和の小松原で、明治9年(1876年)10月31日午後12時、雲揚艦が遭難しました。長州萩で
乱が起こり、横須賀を軍艦浅間とともに出港しましたが、遠州御前崎で暴風雨となり蒸気機関
が止まりました。そこで瀧野艦長は船だけで串本まで直行と決心しました。真夜中「あかりが見
えます」とのことで方向を変えようとしましたが、横波をかぶり艦は動かなくなりました。艦長は
全員上陸を命じましたが、泳げないもの11名をはじめ23名が溺死し、52名は勇敢な阿田和の
若者の必死の活躍によって救助されました。殉難者は光明寺に葬られております。
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◇水壷地蔵

水壷地蔵は弘法大師がここを通り、杖をついて清水を沸き出させ、旅人の便をはかったとい
われる場所にあります。水壷地蔵は新旧2体あり、ともに丸彫り型座像です。その前に石灯籠
があり、「神野木村安全」「往来安全」「嘉永三戌十二月」「願主 大坂佐藤家宗七 世話人 庄右
衛門」の銘文が刻まれております。嘉永3年は桜田門外の変の10年前、1850年です。大坂の
大工宗七は職を求めて熊野に来たが、仕事が見つからず、水壷地蔵で疲れはてて寝込んで
し まいました。その夢枕にお地蔵様が現れ「この下の集落へ行くと仕事がある」と告げられま
した。早速神木集落へ下りてみると仕事があり、その後大繁盛したので、そのお礼に地蔵と石
灯 籠を献納したと言われております。
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◇神木流紋岩

神木側から横垣峠を登ると峠を越え、しばらく進むと阪本に下る石畳道が続きます。この辺り
の石が神木流紋岩です。一般に白色、(風化面では赤褐色)で流理構造が顕著です。長さ約
10キロ、幅5キロ、平均の厚さ約300メートルの平板状の岩体をなして北東から南西方面に分
布しております。熊野酸性岩の最初の活動で形成された地中のマグマが噴出した溶岩流で
す。東大理学部地質学教室の荒牧・羽田両氏によって「神木流紋岩」と名付けられました。
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◇上地地蔵

峠を下り林道に出て、林道を少し左に歩いてから右に登ると山中に地蔵像があります。平成8
年地区民から古道が埋もれていることを知らされ、調査の結果発見されたものです。この地
蔵 は座像で高さは81センチ、銘文によると天保5年(1834年)岩洞院滴水和尚の発願のもの
で、坂本村上地中とあります。正面台座には「般若理趣分 書写法施 供養」と刻まれておりま
す。 滴水和尚は風伝峠から通り峠付近に何体かある地蔵の発願主です。
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◇亀島の石灯籠

山を下りて少し歩くと、亀島と呼ばれている自然石の上に石灯籠が見えます。石灯籠の高さは
2メートル54センチ、銘文は「文化十酉吉日」(1813年)とあります。妙見山の遥拝所と言われて
います。
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◇池大明神

下市木三軒屋には壷の池大明神が祀られています。下北山村の池の峰神社の近くに大蛇が
住み、住民や旅人を悩ませていました。神様は懲らしめてやろうと、下駄で踏みつけ三つに分
けました。頭(奈良猿沢の池)と胴(池の峰明神池)と尾(下市木壷の池)です。その尾は壷の
池の主となり、大うなぎとなりました。そのうなぎを取ると病になり、やがて亡くなり、村人はそ
の 後、うなぎを取らず、汚物を流さず、池大明神として祀りました。「この池に汚物を流すべか
らず」という立札を立てるのと、人間を超えた存在を認識させるのと、どちらに効果があるので
しょうか。
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◇巡礼供養碑

浜街道に峠はありませんが、それに代わる難所がありました。それは志原川、尾呂志川、で
す。当時は橋もなく、波の引き間を利用して河口の浅瀬を走り渡りましたが、時には波にのま
れる人もありました。志原川尻には巡礼供養碑があります。「異邦信士」(文化九年)「水雲
(寛)法」(延宝二年)「空月源智」(元和三年)の三基です。丹波とか日高とか遠方から来られ
て、犠牲になった方々です。
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◇巡礼碑

熊野は、その昔巡礼者を選ばなかったのです。この地域のモットーは、”貴賤を問わず・男女
を問わず・信不信を選ばず・浄不浄を問わず・”の迎え入れの心が有りました。又粉の地域
は、漂着の歴史でも有ります。漂着した物や人を暖かく迎えかつ恵比寿迎えとして、祀るなど
や巡礼が行き倒れ等になると碑を建立して居る(志原巡礼碑・六部供養塔)又最近出てきた尾
鷲市古江の古文書によると巡礼を迎える宿、これを普根宿と言う(主に庄屋がしていたらしい)
に九州の長崎から来た巡礼が腹痛で苦しんで居たのでそれを介抱し少し元気になったので送
り出したが峠を越えられず他の人に連れ返されそこで亡くなり碑を立てていたらその子がやっ
てきて丁寧にお礼を言いいつか長崎に来てくださいと言って亡骸を持ち帰ったとのこと。

これらは、この地に住む人の心の温かさを表しています。
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◇大蛇

大蛇が実在していた!今時こんなことを言っても?その証の一つとて無い。ある人から聞いた
ことによるとこの嘘のような話がある。その人の見たという大蛇の話である五郷の山奥の蛇の
越えと言うところでは、谷間を横切ろうとしている大蛇がどちらが尻尾か分からなかったという 
これを見かけた山菜取りの女性が驚きのあまり 長い間寝込んでしまったという。その当時の
人が猟で山に入っていったとき、4~5日分くらいの食料をもっていった。山の動物が盛んに活
動する真夏の時期である、蝉が鳴きあたりでは小鳥が囀りゆっくりと歩いていたその時であ
る、突然上の方から騒然とした物音?ただごとでは無い。鹿か猪か?銃を構え、近づく と!そ
の瞬間全速力で駆け下りてきた熊が茂みの中から谷間を一足飛びに一瞬にして姿を消した。
はっと我に返った、その瞬間である。目の前に現れたのが、なんと!大蛇  熊を追ってきた
のである。瞬く間におこったこのすさまじいまでの恐怖と驚き。全く想像さえする事の無かった
出来事に、さすが度胸ものもこの時は度肝を抜かれたという。大蛇が熊を追ってきた。まるで
夢そのものである。大蛇の色はからす蛇のように黒かったという長さは4メートルくらい太さは、
20センチくらいこの人がこの大蛇の太さを表すときよく指さして示すのが「コケ」と呼ぶ小さい
木製の手桶であった。黒い大蛇が勢い込んで谷に滑り込んで来たその瞬間!流れる谷水が
大きく左右に飛び散ったと言うからその大蛇の勢いと大きさは測り知ることが出来る。
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◇井田の観音様

昔々のこと七里御浜に面した井田の村に、西忠次という武士が住んでいた。忠次は、勇気が
あり、心優しい人柄で「西殿」と呼ばれ、皆に慕われていた。 ある夜 眠った居た忠次は、自
分の名前を呼ばれた気がして目を覚ますと、部屋の隅に光り輝く観音様が立っていた。「お前
は悪い奴を追い払ったり貧しい人々を助けたりよくつくしている。その心に感じるものがあるの
で、西方浄土より私がお前の家に行き、お前とお前の家族を守ってやることにした。私をまつ
る心があるなら、御浜にすぐに出向き私を迎えなさい」 と言い終わるとふっと姿を消したしまっ
た。 忠次は飛び起きて七里御浜にかけつけた。遙か彼方の海を眺めていると、沖の方から
光り輝く観音様が忠次のそばへすっと流れより、思わず手を伸ばした 忠次の腕の中へおさま
った。 高さ30センチほどの金色まばゆい、みごとな観音様であった。 家に戻った忠次は、
屋敷の中にお堂を建てて観音様をまつり、一家と村の守り仏とした。観音様は、病気や災害か
ら守ってくれるというので、村人だけでなく、熊野三山へ巡礼をする人々からも、井田の観音様
と慕われ信者が増えていった。 江戸時代の中頃には、参る人が多くなり、熊野街道にそった
高い丘に、新しいお堂が建てられた。それからというもの、初午の日の大祭には奥野中から人
が集まり、お堂の前の巡礼坂は、露天で埋め尽くされるようになった。海か来たという井田観
音様は今でも、小さなお堂の中で海原の彼方にあるという西方浄土をのぞんでたちつずけて
いる。
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◇母子くじら

昔々、奥熊野の入り江に、鯨を捕って豊かな暮らしをしている白浦という漁村があった。ある年
鯨が全く捕れなくなった。そんなある日の夜、常林寺の和尚さんの枕元に美しい女性が現れ
た。「明日私は、子を産むために南の海に行きます。前の海を通りますが どうか私を捕らな
いでください。お願いします」 と言って消えた。明くる日 和尚さんは、夢の中の女性は、母鯨
だと思い、漁師達の家へ知らせに行ったが、もう皆漁に出たあとだった。 その頃一人の漁師
が鯨を見つけた。皆は、いっせいに鯨を船で取り囲み 手はずよく鯨を捕った。久しぶりの大
漁に喜びながら船が戻り、大きな鯨が捕れたことで、村人がたくさん集まった。早速さばいてみ
ると、和尚さんが夢で見たとおり、お腹の中にこくじらが入っていた。 それからこの村では、病
気になる人が増えた。また海が荒れて多くの人が亡くなった。村人は白浦の丘に母子鯨の立
派な墓をつくり手厚く弔った。それから悪い出来事は、おこらなくなったという。
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◇蛇女房

ある男に女が「嫁にして下さい」 俺は身体が弱いから食べさせていけんからむりやでの」 「そ
う言わずぜひ」 しぶしぶ嫁にした。  やがて子供が出来、女は、「この子に乳を飲ませる間
は部屋を開けないでください」 と言った。ある日釣りから帰った男が覗くと大蛇が子供を真ん
中にしてとぐろを巻いていた。「開けないでと言ったのに、見たからには、生かしておけん」 と
言うて追う女に、男も子供も淵に飛び込んで死んでしまった。
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◇油屋お紺

五郷町寺谷に伝わる物語は、年貢を納めるために身売りされた娘の悲しい話である。.

八百屋お七では、ありません  歌舞伎芝居「伊勢音頭恋寝刃」に登場する「油屋お紺」
は、五郷町寺谷の庄屋の娘。遊女として伊勢へ旅立つとき、父がお紺の大好物の”たかなの
にぎりずし”をもたせたといいます。 ”めはり”という呼び名は、”たかなのにぎりずし”が大きくて
目を見張る程美味しいから、などといわれています。

油屋は大林寺の左隣、今は近鉄鳥羽線のため切り開かれてしまっているあたりで、当時は古
市3大妓楼の1つだった。部屋持ち遊女24人、部屋を持たない二流処遊女24人、仲居10人で
女性の総数は72人だったといわれる。事件があったのは、寛政8年(1796)5月4日のこと、宇
治浦田町の医師 孫福斎(まご ふく いつき)は、油屋で馴染みのお紺(20歳の時)を相手に酒を
飲んでいたが、途中、お紺が伊予の商人らに座敷に呼ばれて中座し、なかなか戻ってこない
ので、斎は業を煮やし、遂に荒れ狂って、即死2名、負傷者7名、合わせて9人斬りの殺傷事件
をひきおこした。いったん油屋から逃げたが、逃げ切れないのをさとって、同月14日、宇治浦
田町の藤波長官の邸で自刃した。享年27歳だった。

お紺は33歳で亡くなっている油屋騒動から33年後に上演された。
伊勢の御師(下級の神官)福岡貢は、旧主今田萬次郎の探している青江下坂の刀を手に入れ
るが、折り紙(鑑定書)が手に入らない。 貢の恋人油屋の遊女お紺は、その折紙を手に入れる
ために徳島岩次という客に身を任せ貢に愛想尽かしをする。これは、貢が探し求めていた刀
の折り紙を、悪人の徳島岩次から取り上げる方便で、後に誤解はとけるという筋書き。そうと
は知らない貢は、満座のなかで女たちに辱められたことに逆上し仲居万野をはじめ大勢を斬
る。 騒動を聞いて駆けつけたお紺と料理人喜助の働きで無事に刀と折り紙が手に入る。四幕
七場の世話物で序幕が相の山、宿屋、追っかけ、二見ヶ浦、二幕目が大々講、三幕目が油屋
と奥庭、四幕目がお峯の家。

★初演〔寛政八(1796)年七月〕

★作者〔大坂角の芝居。近松(ちかまつ)徳三(とくぞう)作〕

油屋騒動から33年後に上演された。
伊勢の御師(下級の神官)福岡貢は、旧主今田萬次郎の探している青江下坂の刀を手に入れ
るが、折り紙(鑑定書)が手に入らない。貢の恋人油屋の遊女お紺は、その折紙を手に入れる
ために徳島岩次という客に身を任せ貢に愛想尽かしをする。これは、貢が探し求めていた刀
の折り紙を、悪人の徳島岩次から取り上げる方便で、後に誤解はとけるという筋書き。そうと
は知らない貢は、満座のなかで女たちに辱められたことに逆上し仲居万野をはじめ大勢を斬
る。
騒動を聞いて駆けつけたお紺と料理人喜助の働きで無事に刀と折り紙が手に入る。
四幕七場の世話物で序幕が相の山、宿屋、追っかけ、二見ヶ浦、二幕目が大々講、三幕目
が油屋と奥庭、四幕目がお峯の家。

★初演〔寛政八(1796)年七月〕

★作者〔大坂角の芝居。近松(ちかまつ)徳三(とくぞう)作〕

寛政8年(1796 年)5月に起こった『油屋騒動』
(江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊郭の一つといわれた古市で起きた刃傷事件)をも
とにした有名な歌舞伎狂言劇です。事件は27歳の町医者・孫福斎(まごふくいつき)という男
が、古市有数の伎楼「油屋」で、なじみの遊女、お紺(16歳)をめぐり、恋の嫉妬に 狂い、刀を
振り回し、3人を斬り殺し、6人を負傷させたというもの。 斉(いつき)は後に自殺(27歳)。お紺
は49才で病死す。
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アメノウオ伝説

その昔、雨滝の滝つぼに棲むという大アメノウオを、鵜(う)を使って捕ろうとした2人の男がい
ました。いざ鵜を放とうとすると、どこからともなく僧があらわれ、鵜を放つことを止めて欲しいと
嘆願しました。 2人は承諾し、お腹が空いたので持参した粟飯の弁当を開け、僧にもご馳走し
ました。いつの間にか僧の姿が消えたので2人はこれ幸いと思い、 約束を破って鵜を放ちまし
た。すると、滝つぼの底から濁り水が大渦を巻き、ものすごい雷雨となったので2人は 怖くなっ
て逃げ帰りました。 翌日行ってみると、滝つぼに鵜と1mもの大アメノウオが死んで浮いていま
した。岸に上げ腹を裂いたところ、なんと粟飯が入っていたという。
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へび伝説

とある娘に惚れたへびが美男子に化けて通ってきた。帰ったあとの寝間がぬれていたので、
不思議に思った親は娘に  糸を通した針を頭に刺すように言った。そして その糸を手繰って
いくと、大きな淵から蛇の親子の声が聞こえ「頭に針を刺されたのか、こりゃーえらいこっちゃ
死ぬぞ」 「俺が死ねば娘も死ぬ、一緒に死ねれたら本望じゃ」 「5月5日に菖蒲酒を飲まれた
らおりてしまうぞ」 それを聞いた親は、娘に菖蒲酒を飲ませたところ、蛇の子はおりた。
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ガラボシ(かっぱ)伝説

飛鳥のガラボシは、”キュウリを作らない”と願掛けをして近来まで守り通したのです。大又川で
遊ぶものの殆どがガラボシの話を聞かされました。牛を川の中に引き込もうとするガラボシ
が、「どうしても引き上げたいのならキュウリをつくらんと約束せよ」というので「決してつくらん」
と約束をして家に帰り、村の衆にそのことを伝えて それ以来キュウリを作らなくなりました
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天狗伝説

大又に南新左衛門という 大庄屋がいました。大きな倉の横を通っているとなんだか分からぬ
が、大きなものが被さってきた。新左衛門は、刀を抜いて斬りつけるとあたりが明るくなり、羽
根が落ちていました。これは、天狗の羽根に違いないと 持ち帰って床の間に飾りました。天
狗は、家の者に化けて取り返しに来ましたが返しません。そのうち一番尊敬しているおじいさん
に化けてやってきて「羽根をゆずってくれ」と頼みましたが、「なかなか手にはいらんでのう」と断
ると天狗は、羽根を奪い天井も屋根も破って逃げました。家は、火事になり丸焼けになったが
刀は、焼け残ったので”天狗丸”と名付けて寺に納めました。大久保山の頂上に「イシノト」とい
う岩があります。庄屋に斬りつけられた天狗が血を流しながら休んだので その岩は、血を流
したように赤くなってるそうな。
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庚申様

その昔は、庚申講やお浜講といって、春秋の2回各地区ごとに賑わった。娯楽の少なかった時
代で組みの人々が宿へ集まり、持ち寄りのおかずをつつきあって酒を飲み、賑やかな日を過
ごしていた。ものを盗まれると、人の知らぬ間に庚申様を縄で縛ってくると、盗まれたものが帰
ってくると信じられていた。庚申様は、悪くないのにいつも縛られてばかりいた。うせものが見つ
かると庚申様の縄を解きお菓子などを上げてお参りするのであった。庚申様へお参りしたとき
のとなえ言葉は、「お庚申で、まいたり、まいたりそあ
か」であった。
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新鹿の合戦余話

新鹿には。2つの城跡があり、室町時代中期、熊野一帯を支配する有馬氏の北進と伊勢北畠
氏の南進勢力との重要接点になっていた。有馬氏は岩本城・北畠氏は、中山城を築いていた
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波田須の弘法さん

昔々、弘法様が波田須を通った時の話し。弘法様が通ったそのお足跡は、不思議なことにくぼ
み、水がたまり、その水が乾いたことは、1度もなかった。これは、不思議と村人がその水を患
部に付けたところ、けろりとなおった。特にこの水はイボとりによく効くと言われ、今もそこをあり
がたいとして立派に祀られている。また弘法様がお通りになったおりに、子供に栗を一つ懇望
すると、子供は、親切に高い木に登って取ってくれた。「これからはな、低い所からでも栗が採
れるようにしてあげるよ」っとそれからというものは、低い木に鈴なりの栗の実がなり 波田須
の弘法栗と言われている
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大猿

山小屋で炭焼きをしている男から漁師の谷作さんに 「大猿が毎晩現れ小屋を揺すぶるので
討ってくれ」 と頼まれて小屋へ行った。炭窯には、火をいれたぬくみがあるので、大猿は、毎
晩 暖まりに来て、暖まると炭小屋をゆすぶってイタズラするので、そのたびに小屋がギーギー
とゆれ、つぶれそうになる。馬鹿力のある奴じゃという。月の青白い晩、山小屋で待ち伏せて
いると、夜中になって大猿がやってきた。5尺に近い大猿でヒヒのように腰回りも太く人間と同じ
ように両手をかまどの前に出して暖まってるのを見たら、ちょっと手を出すのがいやだった。よ
く見るとこの大猿は、何人もの狩人が手を出してるが、討っても死なないと言う”ナジレ猿”であ
るときなど木の上に追いつめていくら討ってもケロリとしている。そのうち木の下で吠えていて
犬の尻尾を持ってつり上げ親が子供の尻を叩くようにパンパンと2つ3つポーンと谷へ投げ捨
てたので皆逃げ帰ったといういわく付きの大猿。谷作さんは意を決して銃を構え、炭小屋を出
て静かに大猿に近づいたが、大猿は、人間の存在などに目もくれず、立ったまま平然と暖をと
っている。4~5メートルまで近づき、銃を目の高さに構えて「ホイ」と声をかけた。大猿はめん
どくさそうにヒョイとこちらを向いたとき目と目の間に銃が火をふき大猿は、一発でひっくり返っ
た。皮をむくとき厚い脂肪の中から多くの狩人の撃ち込んだ無数の弾が出たという。
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だじゃれ正月

この奇習は、木本で近い昔に実際に行われたもので、正月の3ヵ日に今の西川町弥名寺付近
の道で手に手に御幣を持った若者がこの木本に所用や遊びでくる人達のお尻を御幣で叩くと
いう、一見乱暴な奇習であった。婦女子などキャーキャー言って逃げ回ったが、委細かまわず
「だじゃれ、だじゃれ、めでたいだじゃれ、ごへいでしりを叩いて祝う」 と唱えながら尻たたきを
した。乱暴にみえて、無邪気で、善意があり、尻を叩かれると、その年は、幸運に恵まれるとい
うことから、奥地の人達は、わざわざ出向いてきたものである。この風習の始まりその他は、
不明だが、その昔のひとたちのおおらかでユーモラスな心情をうかがい知る奇習である。
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松本峠の地蔵さん

松本峠にある地蔵さんの左すそに、小指が半分程はいる穴があって、これには次のような伝
説がある。昔 大馬の新左衛門という鉄砲の名人が早朝、しもへ(泊、新鹿方面)へ狩猟に行
って日暮れに帰るとき、松本峠に行きには、なかった6尺ほどの地蔵が立っているので、「おの
れ妖怪か、狸変化めが・・」 と腕に自慢の鉄砲で撃った弾のあとらしい。この地蔵さんはその
日に木本で完成したのを皆で運び上げ、この峠に祀ったことを知らなかった大馬の新左衛門
の武勇伝?だと言うことである。また一説には、この峠を半分ほど泊側へ下った川の石橋のあ
たりに”およね”という古狸が住んでいて旅人を騙したと言われ、その化け狸を撃ったそれた弾
のあとだとも言われている。
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みなと掘り

この地方のどの川もそうなのだが、台風シーズンになると川口は、高波がよせた大量の砂の
山に埋められ、ひどいときには、数日間も沿線水田が氾らん水で冠水、さらには逆流した海水
による塩害も出た。長年にわたり毎年収穫期に繰り返される川口閉塞は、農家の悩みの種
で、川口の砂の山を切り開いて排水する”みなと掘り”は年中行事であった。数百人、時には、
千人近い村民が砂の山開きに悪戦苦闘した。ブルドーザーなどない時代、すべて手作業であ
った。せっかく切り開いた砂の山も次の大雨でもとの黙阿弥になり、泣くに泣けない辛い思いを
したものだ。藩政時代には、川口を変えるため、違う方向に流路を掘りかけたが途中で大岩盤
につきあたり工事を中止。庄屋が責任をとって自殺したと言う話もある。また排水口の代用トン
ネルを掘りかけたが、あえなく断念したりして 名物のみなと掘りは、その後も続いた。
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青い海犬

その昔から、熊野地方に住む人々は、深い深い海の底に、頭のてっぺんから尻尾の先まで真
っ青な犬が住んでいると信じていた。不思議なことに、その犬を見たものは、誰もいない。その
犬は、人間が二人以上居るときは、決して姿を現さず、幼い子供が一人 海辺で遊んでいると
き、海面に白波をけたててやってきて、その子を海底に誘い込んでしまうと言い伝えられてき
た。 つまり青い海犬は、海で水死をした幼児達の魂がこりかたまって生まれた精霊なのだと
いう。夕暮れ時に波打ち際で遊ぶ子供を見つけると、なつかしさのあまり海底より一気に水面
におどりでて、かけより子供の足下にじゃれつく。そして子供をしだいに深みに誘い込み海底
に引きずり込んでしまうのだという。熊野灘の海辺で暮らす子供達は、幼い頃から母親に海犬
の話を繰り返し聞かされて育つ。「暗くなったら海辺に一人で行ってはあかんよ。青い海犬がや
ってきて、海の深いところへ誘い込むんやからな」 また目で見たものしか信じられない年頃の
子供達には、知恵深い海辺の母親達は、こうも話すのだった。「青い海犬の姿はなかなか見え
やんけど、その鳴き声は聞こうおもたら聞けるんやで。暗うなったら海岸へ行って、貝殻を拾う
て耳にあててみな。ルルル、ルル、ルルッと鳴く、海犬の声がはっきりと響いてくるんやで」海辺
の村々でも、海岸が子供達の自由に遊べる場所でなくなりつつある。青い海犬がしだいに熊野
の人々の心から消えようとしているのは、さびしいことである。
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かにの恩返し

暖かくて蜜柑が甘く熟れる美しい里、熊野の金山という村の娘さんが、お宮のほとりの細いせ
せらぎが流れる小道を通りかかった。すると何人かの子供達が、小さな蟹を2匹つかまえて遊
んでいた。おもしろ半分に大きなはさみを抜いたり、横歩きをからかって無理矢理まっすぐ歩
かそうとしてみたり。1匹の蟹ははさみをふりたてて必死に逃げようとするのだが、子供達は、
許さず、少し歩かせては引き戻して遊んでいる。おとなしい娘は、ガキ大将に注意する勇気も
なく心を痛めてるうち、どうしたことか蟹の言葉がわかってきた。「どうか許してくらんし、わしに
は、川の中で待っている小さな子供が何匹もいるんじゃよ。わしが帰らなんだら、あの子たち
は、飢えて死んでしまう。あんた達には、おもしろ半分でも、わしらは生きるか死ぬかなんよ。
それそこでもがいているのは、わしの亭主なんよ。ああ助けてくらんしや」 蟹の飛び出た目か
ら、コロコロと涙の玉が流れているのを娘は、はっきり見た。はずかしがりやの娘は、勇気をふ
りしぼって、「これこれお前達。もう蟹さんを離しておあげ。この蟹は、お母さん蟹よ。はさみを
抜かれて苦しんでいるのよ。そっちのは、お父さん蟹よ家には、小さい子供の蟹がまっている
んよ。もう離しておあげ」 と心から頼んだ。しかし、「蟹の言葉らわかるわきゃないぎゃ」 と子
供達は、なかなか離してくれず、とうとう娘は、わずかしかないお小遣いをみんな出して蟹を買
い取り、川へ戻してやった。「決してこのご恩は忘れません」 蟹夫婦は、涙を流しながらお互
いをいたわりつつ川へ戻っていった。

何年かして娘の父親が 山で木を切っていて倒れた木の下敷きになってしまった。重い怪我を
して動けなくなり、もう助からないと覚悟をしたところに大きな蛇がやってきた。父親は、「蛇さん
どうか助けてくだされ、もし助けてくれたら、私の娘を嫁にやるから」 と言って頼んだ。蛇は、
胴体を倒れた木に巻き付けて起こし、父親の身体をぐるりと巻くと、苦心して里まで連れてきて
くれた。おかげで父親は、命が助かった。何日かしての夜、蛇は、人間に姿を変え、娘を嫁に
もらいに来た。  何も聞いていなかった娘は、たいそう驚き、嘆き悲しんだ。「今晩すぐに来
い、と言われても支度もあるしいけんわえ。どうか、もう少し日を延ばしてくれんかの。お嫁の支
度ができたらきっと行くから」 娘が泣いて頼んだので、蛇は、仕方なくその晩は、帰っていっ
た。娘は、父親に言った。「お嫁に行くのは、仕方がないけど、その前に檜だけを使って2畳ば
かりの小さな家を建ててくれんかの。ただし絶対に節穴のない家をね」 父親は、訳がわからな
いものの、大急ぎで窓も穴もない檜の家を建てた。家と言うより、お堂といったほうがふさわし
い建物だった。娘は、その中にこもると、一心に観音経をあげた。何日目かの夜に、蛇は、人
間に化けて娘を迎えにきた。。父親も母親も、「娘は、あのお堂におるから、あんたの好きなよ
うに連れて行ってくだされんかの」と言うばかりだった。蛇は、お堂に入ろうとしてくるくる回った
が、節穴がないので入ることができない。「ちくしょう 小さな穴でもあったら、俺は、いくらでも
入るのになんと言うことだ。このお堂には、一つの節穴もない」 怒った蛇は、お堂全体をグル
グル巻にして締め始めた。お堂は、メリメリと音を立て、壊れだした。娘の観音経を上げる声も
小さくなり、両親は、恐ろしさに震えるばかりだった。締め付ける力は、強まり、尾で壁を叩く音
がすさまじい。明け方がだんだん近づいてくる。その時だった、恐ろしい蛇の叫び声がして、物
音がぱたりとしなくなった。夜が明け、両親がおそるおそるお堂に行ってみると、蛇はいくつに
も切られて死んでいた。そして周りには沢山の蟹が居た。蟹がはさみで蛇を切ったのだった。
お堂の中から娘がそっと顔を出した。そして娘は、涙とともに蟹に呼びかけた。「あのときのお
母さん蟹さんね」 「そうですよ そしてこの蟹たちは、私の子供達です。やっとご恩を返せまし
たわ」 金山の里に今日も明るい日が差し込んでいた。
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タツ島とビキ島

昔々、熊野の赤倉にタツ島という巨大な竜が住み着いていて、ウバメガシを家来にしていた。
近くの尾川川の縁には、ビキ島という大きなヒキガエルが住んでいて、川中の生き物を従えて
いた。  あるとき、川中の生き物たちが、「ビキ島様。この頃赤倉の山の中でタツ島が大声で
話すので夜もゆっくり寝られんので困るんです」 と訴えた。「それじゃ、一飛びで見てきてやろ
う」 とビキ島は、屏風のように切立った大丹倉へ向かってのぼり始めた。大丹倉は、高さ約
200メートル幅500メートルの大岸壁で、その間には、いくつもの滝があり、修験者以外は、寄
せ付けなかった。この大丹倉の近くに近藤兵衛という天狗鍛冶が住んでいた。彼は丹倉の砦
守でもあった。夜になると大丹倉の岸壁にこもって荒行をしたので村人は、”天狗様”と呼んで
尊敬していた。天狗の親分は、川から上ってくるビキ島を見て、「おいビキ島。どこへ行くんじゃ
ら」 と声をかけた。ビキ島は、「赤倉の山の中で大声がするので、ちょっとのぞきに行くところ
です」 と答えた。すると天狗の親分は、「そりゃタツ島とウバメガシが、何か相談している声じ
ゃ」 と言った。ビキ島は、大丹倉を登り切ると、深い山をのっしのっしと歩いていった。「タツ島
様、大きなビキ島がこちらへやってきます」 と見つけたウバメガシが報告すると、「ビキ島ごと
き一のみにしてやる」 とタツ島は、いきまいたビキ島は、ハアハアと荒い息をしながらやっとタ
ツ島の近くまでたどりつき、声をかけた。「おいタツ島、大声で話すと、大丹倉の山中に響いて
夜も寝られん少し静かにできんのか」 「グズグズ言うと、一のみで飲んでまうぞ」 とタツ島は、
怒って答えた。「何飲めるものなら飲んでみろ。生意気言うと、あべこべに俺の背中の毒を吹き
かけるぞ」 とビキ島も負けては、いない。天狗の親分はそれまで黙ってふたりの喧嘩を聞いて
いたが、「おいおい お前達なんたるつまらん喧嘩をするのじゃ。我々がここにこうして頑張って
おればこそ、この辺の村々は、仲良く静かに治まっているのじゃないか。喧嘩をしていてそこへ
外から思わぬ悪者が来ては、お互いに困ることになるじゃないか。つまらぬ喧嘩はやめろよ」 
これを聞いた二人は、「なるほどそれもそうだ」 と感心した。「おいビキ島。俺が悪かった」 と
タツ島は素直に謝った。「いや俺も短気を起こしてすまなんだ」 とビキ島も謝った。ビキ島は、
そののち尾川の大人平の頂上にあがって、海の方を眺めて見張りをするようになった。こうし
て三人が仲良く、この草深い山里を見守ったので、この辺の村々は、本当に平和で、悪い病気
もはやらず、長く栄えた。今も熊野の名所である大丹倉の大岸壁を中央にして、東に竜が口を
開けたような巨岩タツ島が、尾川川をはさんで西にヒキガエルそっくりのビキ島が その雄姿を
伝えている。
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山地のねねこ

飛鳥の里は、山深く海岸から遠く離れているせいで、南国熊野とは、思われぬほど冬は、厳し
い寒さにさらされる。幾つかの集落が山を越えて点在し、集落と集落は、坂道で結ばれ、人々
は、少しの田畑と山稼ぎでつつましく暮らしていた。飛鳥町小坂は、そうした集落の中でも、ど
こへ行くにも坂を越えなければならないほど、坂が多いところである。  「”山地のねねこ、わ
ら一ワやろか そいじゃ二ワやろか  わしや、庭よう掃かぬ 奉公すりゃこそ庭掃きまわる”」
  新鹿には今もこんな歌が残されている。  また飛鳥の人も負けては、おらず言い返した。
「”わらの1ワや2ワせどでもひらう、道でもひろう。新鹿のガイロゴーは、畦から落ちてキンタマ
ついた”] 寒い飛鳥では、ヨモギの生えるのが遅く、暖かい海辺の新鹿に摘みに行く子供達。
背中にいっぱいヨモギを背負って八丁坂を越えて行くのが、ちょうど赤ん坊をおぶった子守の
姿に似ているので”山地のねねこ”と呼んだという。   その昔春の節句の頃、小坂のとある
夫婦が餅を焼いて食べているところへ、みすぼらしいお遍路さんが訪ねてきた。お遍路さんは
疲れ切っていて、明かりのついている家を見てほっとし 「誠に申しかねますが、空腹で困って
います。どうか何か食べ物を恵んでください」 とたのんだ。夫婦が餅を焼いているのを見てい
たしかったが、貧しい夫婦には、人に恵んでやるようなゆとりもなく、あわてて餅を隠して「おあ
いにくじゃ、何ものうてすまんことじゃのし」 と答えてしまった。「節句のお餅でも結構です。どう
か助けてください」 お遍路さんは、丁寧にもう一度頼んだが、夫婦は困り果ててとっさに、「あ
の餅にはヨモギが入っていてとても苦いので人にあげられないんじゃわえ、どうか悪うおもわん
での」 と嘘をついた。「そうですか。それはどうもご無理を申しました」 お遍路さんは、寂しそ
うに言って、また外に出ていった。夫婦が心の痛む思いをしながら、隠していた餅を再び取り出
して食べようとすると、餅が本当に苦くなっていて、食べることができなかった。「あのお遍路さ
んは、きっとお大師さまに違いない。嘘をついてしまった。もったいないことをしてしもうた。人に
恵むのを惜しむと、こんなことになるのじゃの」 夫婦は心から後悔し悲しんだ。それからという
もの、小坂のヨモギは苦くなてしまい、新鹿まで摘みに行くことになったという。
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楊枝薬師

熊野の奥深い山の中に、戦いに敗れ、落ちてきた吉勝という侍がいた。吉勝は、小屋を建て
て、一人寂しく暮らしていたが、ある日一人の若い女に山で出合い、頼まれるままに小屋に連
れ帰った。女は、、身の回りの世話をするから、ここに置いて欲しいと頼んだ。おかしいと思い
ながらも、人恋しさに吉勝は、頼みを聞き入れた。しかし不思議なことに、女は、父や母のこと
も、我が名さえもうち明けようとは、しなかった。吉勝も深い山での生活に慣れると、もう山を下
りる気がしなくなった。こうして2年ほどがたち、自然に夫婦となった二人の間に、緑丸という子
供ができた。ある夜のこと、女のようすがおかしい。顔の色も青ざめ、涙さえ浮かべている。
「心配事があるのなら、話してくれ」 吉勝は、たまりかねてそう言った。すると、女は、涙を落と
して、「実は、今まで隠していましたが、私は、湯浅宗重様の鷹狩りのさい、切り倒されるところ
をあなた様に助けて頂いた柳の精で、お柳ともうします。この度、京の都の三十三間堂の建立
が決まり、棟木としてわたくしが選ばれました。明日は、切られて千年の命を失います。あなた
様の愛情に支えられて、人間の姿になっていましたが、もう今夜限りで会うこともできません。
許してください」 という。お柳は、かつて吉勝が、助けた柳の木であったのである。夜が明ける
と、お柳は、吉勝と緑丸に別れの言葉を告げ、二人が引き留めるのも聞かず、姿を消してしま
った。吉勝は、狂ったように柳の大木をめざして走った。しかしようようたどり着いたときにはは
や柳の木は切り倒されていて、木こり達が力を合わせて引き出そうとしているところであった。
ところが、どれほどの人数がかかっても柳の木は、びくとも動かない。奉行や木こりの頭が声
をからして、「それひけ、やれ引け」 と呼び立てても糸一筋ほども動かなかった。吉勝と緑丸
は、たまりかねて飛び出し、柳の木にすがって、涙をハラハラと落とした。お柳と過ごした幸せ
な日が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。その姿を人々は、ただそっと見守った。「さあきっ
とこれで動きます。引いておくんなさい。わしも着いていきます」 吉勝が綱に手をかけると、不
思議にも柳の大木はゆっくりと動き出した。そして柳の大木は、三十三間堂の立派な棟木とな
った。村人達は、柳の切り株あとに薬師如来を祀り、楊枝薬師と名づけた。
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坂上田村麻呂

その昔、平城天皇のころ、諸国に鬼神魔王と呼ばれる鬼たちが騒ぎ立てて人々を苦しめてい
た。熊野でも一鬼(市木)、二鬼(二木島)、三鬼(三木里)、八鬼(八鬼山)、九鬼(九鬼町)、そ
して鬼の本城、鬼の元(木本)などの城を構えていた。当時武勇並ぶものがいないと言われた
大将軍・坂上田村麻呂は、鬼退治を命ぜられ、兵を率いて熊野に赴いた。しかし、鬼たちは、
深山幽谷に逃げ隠れ、行方しれずになってしまった。そこでひときわたかい山があったので、
その山に登って観音さまのお名を一心に唱えていると、不思議なことにどこからか、烏帽子を
かぶった天人が現れた。「これより東方の海辺に岩屋あり、多蛾丸という悪鬼これに立てこも
れり。海を渡り熊野の奥の末までもいきて大悲の弓にて悪鬼を討つべし。我は、大馬権現なる
ぞ」 と言うと白馬にまたがり西天に飛び去った。烏帽子の天人が飛び去った所なので、紀宝
町にひときわ高くそびえるこの山のことを、大烏帽子山と呼ぶ。  このお告げを聞いて勇気が
倍加した将軍は、ただちに兵船を海に浮かべ、東にこぎ出した。しかし岩屋を望む沖までは来
たものの、鬼ヶ城と呼ばれる硬い岩に守られ、岸壁に強い波が打ち付けてとても近寄れない。
さすがの将軍も途方に暮れてしまった。すると、沖の島に一人の童子が現れ、差し招くではな
いか。兵船をこぎ着けると、童子はおもしろおかしく手足をあげて歌い舞う。つられて兵士も一
緒に歌い踊り出し、ついに大舞踏会になってしまった。 あまりの賑やかさに、身の丈七尺(約
二メートル)もある鬼ヶ城の大将・多蛾丸もつい気を奪われ、思わず岩屋の戸を開いてしまっ
た。そこを逃さず、将軍の大悲の弓がどっと射抜いた。 魔王多蛾丸を見た島”魔見ヶ島”の童
子は、鬼が退治されたのを見届けると、輝かしい白い光を放って、北方の峰の彼方へ飛び去
っていった。将軍が、その童子の飛び去ったあとを追って険しい山の中をたどっていくと、深山
の頂上に一丈(三メートル)四面の洞窟が現れた。紫雲がたなびいていて、えもいわれぬかぐ
わしい香りが漂ってくる。 将軍は、感ずるところがあり、幼少の頃から肌身離さず持っていた
一寸八分(約五センチ)の千手観音をお納めする寺を建立して治国平和の霊場とした。地形が
京都音羽山に似ていたので、比音山清水寺と名付けた。これが泊の観音さまである。千手観
音は、今は、大泊の清泰寺に安置されている。そして大将、多蛾丸の首を井戸の奥(大馬)に
埋めてその上に社殿を建てた。この神社は、熊野の国の総鎮守として、狛犬を獅子岩に従え
ている。将軍は、その後も熊野中の鬼を尾呂志の風伝峠まで追いつめ、四匹の鬼を生け捕り
にし、都に凱旋した
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板屋九郎兵

板屋九郎兵は、祖父の代から入鹿組の板屋に住み、庄屋を務めるなど、あたりでは、知られ
た人物であった。 入鹿は、南北朝の時代から鉱山で名高く、賃金が高ったことから全国から
人々が集まり、板屋の里は、その中心として、たいへんなにぎわいをみせていた。江戸時代の
ころ、熊野地方で三度三度米のご飯を食べられるのは、木挽きと鉱山で働く人だけだと言われ
たが、この人達の集まる板屋の村は、賭け事や喧嘩が絶えなかった。これに手を焼いた奥熊
野代官所は、入鹿の男達の取締を板屋九郎兵にゆだねた。当時九郎兵は庄屋であったが、
鉱山の荒くれ者を相手にした博徒の親分でもあった。九郎兵のきっぷのよさに、惚れる女も多
かったが見向きもせず1人暮らしをしていた。ある年、風伝峠を越えた尾呂志の里のお菊との
結婚話が持ち上がった。 お菊の家も尾呂志荘の大庄屋を務める大家で、しかもお菊は、絶
世の美女だったので、この結婚話は、とんとん拍子に進み、まもなく結婚の日を迎えた。 二人
の仲は、人もうらやむほどであった。九郎兵が出かける際には、必ず門口まで出て「行ってらっ
しゃいませ」と腰をがめ、九郎兵は、「いってくるぞ」 とお菊の肩をたたいて出かける毎日であ
った。この光景をいつも目にする付近の人々は、  「牛や馬なら、あるかニャたたく、板屋九
郎兵は、嫁(かか)たたく」  とはやした。このように仲むつまじい九郎兵とお菊であるがいつ
までたっても子供ができない。一人でいると寂しさがつのり、お菊は、しだいにふさぎがちにな
っていった。九郎兵は、このようなお菊の様子に気づき「子供さえあればもとの明るい妻の戻っ
てくれるだろう」 とお菊が気に入った彦八というかわいい乳離れしたばかりの男の子をもらっ
た。 お菊は、彦八をたいへんかわいがり、これまでの寂しさも消えて、満ち足りた生活を送る
ようになった。 夏の盆踊りの時期となり、本番に向けて踊りの練習が始まった。今年は、九郎
兵の世話で尾呂志の坂本から 久作を師匠に招き、毎晩練習することになった。久作は、長い
間町で暮らしたあか抜けした優男。久作を慕って集まる娘も多かった。 お菊もまだ若い。ドド
ン、ドドンと太鼓が聞こえてくると、血が騒ぎだした。お菊の実家は、盆踊りが盛んなところ。盆
踊りだけは、毎年かかさず、お菊の踊り上手は郡を抜いていた。練習にいったお菊のひときわ
目立つ踊かたに、久作の目も吸い付けられ、毎夜の踊での目配りは、人々の噂を呼び、やが
ては、九郎兵の耳にも入ってしまった。板屋の盆踊は八月一六日が最終である。「一つ坂本の
久作踊、お菊さんに置きみやげ、サーヤートコセ、ヨヤサノセ」  最後の踊を楽しみにしてい
たお菊は、あいにくその朝、月のものを迎えた。村の習わしで、月のものを見ると村で立ててい
る暇屋に入り、終わるまで過ごすことになっていた。 お菊は、彦八を一人置いて行くわけにも
いかず、彦八を連れて暇屋に入り、太鼓の音を聞きながら、一つの布団に彦八を抱いて寝込
んでしまった。その日の暇屋は、お菊と彦八の二人だけだった。一方九郎兵は、恒例となって
いる盆の賭博を開いた。各地から大勢の博徒を迎えて大勝負を張ったが、久作とお菊の噂が
気になり、思い切った勝負ができずに大負けしてしまった。「ままよあしたがあるさ」 とあきら
めて家に帰り 「お菊 いま帰ったぞ」 と呼んだが返事がない。「おのれ久作めと駆け落ちした
か」 とかっとなって、壁の鉄砲をとると、風伝めがけて突っ走ったが 「待てよ 今朝家を出る
とき、お菊は、暇屋入りの話をしていたぞ」 とふと思い出して立ち止まった。九郎兵は、今来
た道を引き返し、暇屋をのぞくと、暗いながら確かにお菊が寝ているのが分かった。しかも、一
枚の布団に二人抱き合って寝ている。久作と寝ていると勘違いした九郎兵は、「おのれ姦婦め
恩を仇で返しやがって」 と我を忘れて、ドスンと一発ぶっ放した。弾は、お菊の頭をくだき、広
間は血に染まったが、彦八は、布団にもぐっていて難を逃れた。九郎兵は、「しまった」 とただ
一言。暇屋に呆然と立っていたが、夢から覚めたように我に返り、そのまま近くの寺に駆け込
んだ。和尚にことのしだいを懺悔し、直ちに剃髪し、今入道となった。夜が明けると、里の人々
にこのことをわび、「私は、入定してお菊のもとにまいる」 とつげ、彦八のことを人々に頼ん
だ。九郎兵は、板屋の所山の地に自分が入る石室を堀 精進料理で身体の 脂気をとり、入
定できるからだに仕上げた。いよいよ入定の支度ができると、村人総出で九郎兵を見送った。
 「辛いときは、頼みに来いよ。一度は、必ずかなえてやるぞ」 と言い残すと、石室の中に入り
座禅をくみ、一枚岩をかぶせてもらった。中に入った九郎兵は、直ちに鉦をたたき 心経を唱
え始めた。日夜を問わず鳴っていた鉦の音もしだいに弱まり、唱える心経も七日目には、つい
に聞こえなくなった。 九郎兵の墓は、今も紀和町板屋の所山にたたずんでいる。
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◇稚子塚伝説

七里御浜海岸の中程に、萩内という村があった。 ここに真水の湧き出るところがあるので、
地主の翁了と言う人が、このわき水を利用して田を拓こうと、大勢の人を使って作業をしてい
た。 八つどきとなり、皆浜辺に腰を下ろして休んでいると、一人の男がさけんだ。「おい、あれ
は、何だ。うつろ船(から船)が流れてくるぞ」 皆が男の指さす方向を見ると、小船が黒潮にの
って、こちらの方へ流れてきた。近づいてくる小舟を 見ると、小舟の底に娘が伏せていた。 
男達は、我先にと海に飛び込み、船にたどりつくと海岸へ引き上げ、ぐったりしている娘を助け
出した。娘は、疲れ切っていたが、天から降りてきたような、それは、美しいお姫様であった。
地主の翁了は、すぐ姫を家に連れ帰り、手厚く介抱してやった。二,三日してようやく元気を取
り戻したが、姫は、自分の身の上を明かそうとは、しなかった。 姫は、阿波の国の大名の娘
で、同国の乳が崎海岸から、愛用の品々や金銀財宝を小舟に積み込んで流されてきたらし
い、と風の便りで聞こえてきた。姫は、からだの調子が良くなると、翁了に 「お世話になりまし
た。無理なお願いで申し訳ございませんが、近くの道端に小さな家を建てて頂けませんか。
日々のひまつぶしに、茶店でも開いて暮らしたいと思います。」と言った。翁了は、姫の申し出
通り、熊野三山参りでにぎわう街道の、わき水の出る近くに家を建ててやった。姫は、ここに茶
店を開き、草餅などを売って暮らした。生まれついての美しさと心の優しい姫のことは、たちど
ころに近郷近在に広まった。「わしの嫁になってくれぬか」  息子の嫁になっておくれ」  数多
くの申し入れがあり、新宮の殿様も翁了に命じて城に入るように言ってきたが、姫は、いっこう
に応じる様子は、なく ついには、そんな話が来ないようにと髪をおろしてしまった。 姫の茶店
の下には、海岸には、珍しくコンコンと湧き出る清水があり、昔から”起請の水”とよばれていた
が姫は、この清水に姿を映し、化粧や身繕いをしたため、いつからか”化粧の水”と呼ばれる
ようになった。姫は、元来病弱の身であったので、しだいに病に伏すことが多くなった。姫は、
我が身の衰えを感じたのか、ある日、愛用の品をまわりの人々に配った。翁了には、鏡と秘蔵
の剣に巻物を添えて渡し、「皆さん、たいへんお世話になりました。私は、もう長くいきることが
できません。私が死んだら、どうぞ七尾七里が見えるところに葬ってください。お世話になった
ご恩は、決して忘れることなく、村の人達をお守りします」 と話した。しばらくして、姫は、眠る
かごとくに息を引き取った。村の人々は、遺言どおりに七尾七里を眺めることが出来る場所を
捜し、姫がすんでたところから西方に5丁ほど離れた飛波山の頂上に遺体を葬り、冥福を祈っ
た。  やがて人々は、この地を稚子塚と呼ぶようになり ”乙女大明神”の碑を立てた。 4月
3日の姫の命日には、今でも毎年盛大な祭礼が行われている。ここにお参りすると美人になる
とも言われ、祭りの日は、参詣する若い娘たちでにぎわっている。
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有馬浦のいな穂

昔々、イザナギノミコトが七里御浜の大なぎさに出て、魚釣りをされていた。もう昼近くになった
のに、ワカナの子一匹もつれない、「つまらないな~」と思いながら、じっと釣りいとを眺めてい
ると、何か青々としたものが波に揺られながら流れてきた。なにげなくハネ(竿)の先で拾い上
げてみると、それは、ハマユウの葉で大事そうに幾重にもていねいに包み込んであった。「なん
だろう?」 と思ってそれをといてみると、中には、黄金色のつぶつぶの実が沢山ついた、見た
こともない珍しい草の穂が入っていた。「何という草だろう?」パラパラと手のひらにその穂を落
としてみると、一粒一粒が陽の光に輝いて、はち切れそうによく実っている。「これはきっと食べ
られるものにちがいない」 ミコトは、さっそく三粒四粒口に入れて噛んでみた。 すると、どうだ
るう。小さいときにハハ神に抱かれて飲んだ乳のような甘い味がする。 あまりのおいしさに、
又三粒四粒とつまんでいるうちに、いつのまにかお腹がいっぱいになって、急に体中に元気が
みなぎるような気がした。「これはありがたい。まったくの命の種だ。もしこの種をまいて育てて
みたら、皆がどんなに助かるだろう」 そう思ったミコトは、急いだ家へ帰った。そしてその種
を、有馬の大池(山崎沼)のなぎさ一面にばらまいた。春が来た。 ある日ふと、大池のなぎさ
に行ってみると、すがすがしい若緑の、珍しい草があたり一面に芽生えていた。「おお、そうだ
これは、あの時まいた”いのちのたね”の草だいねの苗だ」 イザナギノミコトは、独り言を言い
ながら、始めて見たあの美しい種の色や、おいしかった乳のような味を思い浮かべて、両手で
何度も何度もいねの苗をなでていた。それからは、毎日のように水をやったり、邪魔な草を引
いたり、悪い虫をとったりして、大事に大事に育てた。有馬の大野にあちこちにもえたつような
穂が出て、花がさいた。そしていつの間にか夏も過ぎ、すいすいとトンボが飛び回る秋になっ
た。大池のなぎさは、いねの穂がそよいで、黄金の波がかがやいた。それからというもの、
人々は、飢えるかつかえるかの心配もなくなり、毎年秋には、花の幡たて、”笛に鼓に歌い舞
い”の大祭が行われるようになった。これが有馬の米作りの始まりである。米作りは、ここから
日本国中に広まったと伝えられている。
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峰弥九郎ものがたり(一)

熊野の奥山にある坂本村の峰弥九郎は。普段は、田畑を耕し、山野を駆けめぐって、狩りをし
て暮らしていたが、尾呂志の殿様から呼び出しがあると愛用の火縄銃を持って駆けつけ、幾度
かの戦いで手柄を立てた勇士であった。  弥九郎は、ある時新宮に、用があって行き、帰り
が遅れて山道を急いでいたが、一升栗の峠までくると、もう日は、とっぷりと暮れてしまった。峠
を越え引作まできたところで、「夜道に日暮れは、ないここらで一休みしよう」 と、かたわらの
石に腰を下ろして、タバコを吸い始めた。とっ暗闇の中で何かうごめくものを感じ、あたりを見
回すと、二間ぐらい離れたところで目玉がキラキラ光っている。よく見ると1匹の狼であった。肝
の太い弥九郎は、「お前は、狼では、ないか。そこで何をしているのだ」 と言うと狼は、苦しそ
うに近づいてくる。「何か苦しそうじゃが、わしが見てあげよう」 と狼の口に手をあてがい、中を
調べた。「おおかわいそうに、大きな骨が刺さってる」 弥九郎は、狼の口に手を入れ、骨を抜
いてやった。「どうれそれでは、帰るとしようか」 坂本の自宅に向かって歩き出すと、狼もトボト
ボとあとを付いてくる。弥九郎は、「狼よ、もうこのあたりで良いから、お前も静かに休みない。
そのかわりお前に子が生まれたら、1匹わしにくれんか」 と言って狼を帰し、家路を急いだ。 
それから半年も経ち、狼のことなどすっかり忘れていたある朝のこと、家の前でクンクンと子犬
の鳴き声がする。戸を開けると1匹の可愛い子犬が九郎にまつわりついてきた。よく見るとそ
れは、狼の子である。「さては、前に助けた狼が、わしの言ったことを守って、この子をくれたの
か」 とたいへん喜び、”マン”と名つけて大切に育て、大きくなると、狩りにも連れて行くように
なった。マンは、弥九郎も驚くほどすばらしい猟犬となり、あたりでもその名が知られるようにな
った。 ある時、新宮の殿様が佐野の御猟場で巻狩りをするから漁師は、集まるように、とのお
ふれが出て、弥九郎もマンを連れて参加した。  殿様が山上でお供の人々と休んで居ると、1
頭の手おい猪が飛び出し、殿様めがけて突き進んできた。あまりに突然のことで、お供のもの
も為すすべがなく、「あれよあれよ」とうろたえている間に、殿様が襲われそうになった。その
時、どこからかマンが飛び出してきて、手おいの猪の首めがけて飛びかかり、かみ殺してしま
った。危うい所を助けられた殿様は、たいへん喜び 「あれは、誰の犬じゃ?」 と訪ねた。お供
のものが「坂本村の弥九郎の犬でマンと申します」 と答えると、さっそく、殿様は、弥九郎とマ
ンを呼び出し、沢山の褒美を与えた。弥九郎とマンは、その後も暇さえあれば、山を駆けめぐ
って狩りを楽しんだ。  ある日の夜、近くに住んでるおばさんが弥九郎を訪ねてきた。色々話
をしていたが、「弥九郎よ、お前が可愛がってるマンは、狼の子じゃと世間では、いうが本当か
のう?」 と言った。弥九郎は、これまでのいきさつを話した。「狼は、人間にどれだけ可愛がら
れても生き物を千匹食べると、次は、飼い主を襲うと昔から言われている。イナゴ一匹でも生
き物のうちに入るとのことじゃから、もうそろそろ千匹になるかもしれぬ、用心したほうがええ
ぞ」 とおばさんは、続けた。外で聞いていたマンは、話が終わると悲しそうに三回夜空に向か
って遠吠えをし、姿を消した。弥九郎は、朝になってマンが居ないのに気づいて方々を捜した
が 再び現れることは、なかった。  ただ夜になると鷲の巣山の方から 悲しそうな狼の遠吠
えが毎晩聞こえ、付近の人々は、「あれは、マンの鳴き声だ」 と噂した。 有名な紀州犬は、弥
九郎が育てたマンの血を引いていると言われている。

(二)お姫様

時は、戦国時代 弥九郎は、尾呂志の殿様に従い、関ヶ原の合戦に西軍・石田三成側として
出陣した。弥九郎は、火縄銃の名人でこれまで数々の戦に参加したが、この度は、戦場に着く
までに西軍は、敗れてしまい、引き上げることとなった。負け戦に加わった熊野の武士達の引
き上げは、哀れであった。まとまった行動は、取れずバラバラになって落ち延びてきた。弥九
郎は、その時、殿様から美しいお姫様を預かった。姫には、おともが1人ついていたが、熊野
に帰る道は、難所だらけ、元気な男達でも苦労する峠越えがいくつもあって、途中ではぐれてし
まった。やっと熊野にたどり着いて 馬越の峠を越えたが いつも山野を駆けめぐってる弥九
郎一人ならこれくらいは、平気だが か弱いお姫様をかばいながらの帰り道は、なかなかはか
どらない。尾鷲の八鬼山峠の麓までくると もうお姫様は、一歩も進めず、近くにあったお堂で
1夜を過ごした。明くる日、曽根次郎坂・太郎坂、大吹峠と続く難所を、姫を励ましながら、どう
やら越え、ついに七里御浜の一歩手前の松本峠にたどり着いた。 この峠を下りやっと上市木
までくると、もう弥九郎の里・坂本村は、すぐそこであるが、坂本と上市木の間には、小さな峠
があり 人々は、ここをくらがし山と呼んでいた、その名のとおり寂しい場所である。弥九郎は、
お姫様に、「まもなく私の家に着きますが、あなたを連れてきたことを家の者に説明し、すぐに
迎えに来ますので、少しの間ここで待って居てくだされ」 といいふくめ、大きな平石に敷物を広
げて座らせて、急いで家に帰った。我が家に着いた弥九郎は、家のものにお姫様の話をした。
妻は、「かわいそうに、早く迎えに行かないと日が暮れてしまいますよ」 とせきたてた。弥九郎
が姫の所に戻った頃には、秋の日は、沈み、あたりは、暗くなっていた。お姫様は、大石の上
に伏せていた。「さては疲れ果てて寝込んでしまったか」 と近づいてみて驚いた。岩の上に
は、べっとりと血がたまり、右手に持った短刀は、のど頸に深く刺さって、息絶えていた。一人
置き去りにされたと思いこみ自害してしまったのである。 あとで遅れてきた供のもの達は、こ
の話を聞き 悲しみに暮れていたが 姫の墓の前で皆自害して果てたという。
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焼き餅和尚

紀和町のとあるお寺の和尚さんと小僧さんの話。

その昔奥熊野では、”田かき”というのが盛んだった。田かきは、牛と飼い主の晴れの舞台だ
った。牛の角に赤や黄色の飾りを付け、その日のために毛のつやもよくし。田に連れて行く。
牛に喧嘩をさせるのでは、もちろんない。まぐわをつけて引かせ、牛の美しさと鍬を引かせる飼
い主の技を競うのだ。  時期は田植えもすんでほっとした梅雨がくる前の気候の良い日が選
ばれた。赤土で畦を固めて泥と水を入れ、テニスコートの二倍もある広い田かき専用の田圃
がその日のためにつくられる。牛に引かせるまぐわも、刃の付いた実際に土を起こすのでは、
なく木の台のついた引っ張るだけのものに替えられる。飼い主もまた赤や黄色のはちまきを締
め、牛の尻をたたいてそろそろと田のなかを鍬を引いてまわる。見物もそれは、賑わったもの
だ。  ある年の田かきがおこなわれる日のこと、いつもは、口やかましい和尚さんが、小僧さ
んに 「今日は、田かきを見てこいよ、ゆっくりしてきていいぞ」 と珍しくやさしく言う。小僧さん
はとても嬉しかったけど、どうもおかしいと思った。「早く帰ってこんでいいよ」 と二回も同じこと
を言われたのが気になり 「きっと内緒で何かうまいことをしようとしているのだ」と思った。先日
も和尚さんは、出かけるとき、「この中には、毒が入ってるから、絶対なめては、いかんよ、な
めたら死ぬよ」 とくどくど言って、壺を戸棚に入れた。 小僧さんは、どうもあやしいと思い、壺
の中のトロリとしたものを 勇気を出してなめてみた。とても甘くておいしい飴だった。一口二口
となめてるうちに、あまりのうまさにみんななめてしまった。青くなった小僧さんは、何を思った
か、突然和尚さんの大事な茶碗を、床に投げつけて割ってしまった。そして和尚さんが帰ってく
る気配がすると、ワーワーと手放しで泣き出した。和尚さんは、大事な茶碗が割れてるのと、壺
の中が空っぽなのに驚き「どうしたのじゃ」と怒鳴りつけた。小僧さんは、泣きながら「はい申し
訳ありません。和尚様の大事な茶碗を割ってしまい、あまりの申し訳なさに死んでお詫びをしよ
うと、壺の中のものを一生懸命なめましたが、まだ死ねません」和尚さんは苦虫をかみつぶす
ばかりだった。小僧さんは、あの日のことがあるだけに、あまりにやさしい和尚さんの態度を怪
しいと思ったのだ。田かきを見に行くふりをしてそっと引き返し、納戸に隠れて見ていた。 和尚
さんは、小僧さんが出かけたのを確かめると、檀家からあがったおいしい餅を火鉢であぶり始
めた。「小僧が知れば、又みんな食べられてしまう、今日は、一人でゆっくり食べたい」 餅がい
いにおいで焼け始めると、小僧さんは、そっと玄関に戻り「ただいま」と大きな声を出して庫裡
に入っていった。和尚さんは、大急ぎで餅を灰の中に隠した。 早かったにゃ、どうじゃった、田
かきは?」 「はい和尚様、田かきは、今年もよう賑わいました。牛と牛がこう田の中を走って、
こう角を突き合わせて」 小僧さんは、火鉢を田んぼに見立てて、火箸で灰の中をかき回しな
がら、田かきの様子を説明した。その火箸のさきに隠してあった餅がついてきた。小僧さん
は、それをパクリと食べながら、延々と田かきの話を続けるのだった。こうして和尚さんの餅
は、全部小僧さんのおなかの中に入ってしまいました。  小僧さんは、満腹です。
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とんちの三次郎ばなし

昔々 飛鳥の佐渡というところに三次郎という男が、貧しく暮らしていた。
この三次郎には、色々な話が残っている。

○三次郎のふれまい 
ある日のこと三次郎が竈の火をどんどんたいて、煙をさかんに出していた。


普段は、あまり煙も立てない三次郎の家から、沢山の煙が上がるので、村の人達は、「きょう
は、三次郎んとこ、いったい何事じゃろの~」と不思議がっていた。 そこへ三次郎がやってき
て「ふれまいじゃ(皆にごちそうをすること)ふれまいじゃ」と村中にふれ歩いた。それを聞いた
村人達は、せっかく呼んでくれたんだからと 沢山集まってきた。 ところがいつまでたっても 
ごちそうを出してくれそうにない! 集まった人々は、「三次郎のやつ、ふれまいだと呼んでお
きながら何もだそうとしない」と騙されたことを知って、怒り出した。すると三次郎は、村人に、
「おまえら、そんなにごちそうをよばれたけりゃ、先に俺をよんでおけ」と言った。これを聞くと、
村人達は、プンプン怒りながら家へ戻った。  このことがあってから、先にうまいことを言って
おいて 何もしないことを”三次郎のふれまい”と言うようになった。

○三七日

ある日、三次郎が家のそばを流れる小川の水をぼーっと眺めておった。すると米のとぎ汁らし
いものが流れてきた。それを見て三次郎は、何か思いついたらしく、家の中へ入っていった。ま
もなく三次郎は、村中をまわって、「親のみなぬか(37日=人が死んでから21日経った日のこ
と)じゃから参ってくれ」と言ってふれあるいたそれでお参りに、沢山の人が集まってきた。やが
てお参りの客の前に、二つのお椀が並べられた。客がお椀のふたを取ってみると、お椀の中
には、何もなく、ぬかがいっぱい入っていた。来ていた客は、驚いて「三次郎さん、これは、いっ
たいどういうことだな」と聞くと、「これがみなぬか(37日)だ」と言う。村人は、あきれかえって、
家に戻ってしまった。

○印籠をもらう

熊野では、きざみたばこを入れる印籠のことをヤロと呼んだ。三次郎は、ある人の持ってる印
籠を指さしていかにも珍しそうに 「これは、何じゃの?」 と訪ねた。持ち主は、こいつ こんな
こともしらんのかなと思いなにげなく 「これかこれは、ヤロじゃないか。」 と答えた。すると三
次郎は、待ってましたと言わんばかりに 「おおきに、ではもろとこ」 と言うと、さっさと持ってい
ってしもうた。印籠をとられた人は、くやしくてしようがない。「ぜったいにいつか、うまく取り返し
たろう」 と思っていた。それから暫くして、その印籠を三次郎が持っているところに出くわした。
これは、いいあんばいと、男は、印籠を指さして 「それは、なんじゃ?」 と問いかけた。すると
三次郎は、「ああこれかこれは、フタツガッタリというものじゃ」とすました顔で答えた。ヤロとい
えば取れるのにうまく逃げられてしもうた。

○カラス

ある日三次郎がキジを竹竿にくくりつけて肩にかつぎ 「カラスは、いらんかいの~カラスはい
らんかいの~」 と木本へ売りに出かけた。木本の人々が見ると竹にキジがぶら下がってい
る。あの男は、アホじゃカラスとキジを間違えていると見て 「よしそのカラス買ってやろう」 と
買い手がついた。三次郎は、銭を受け取るとふところからカラスを放り出し、あっけにとられて
見ている人々をしりめにスタコラと帰っていった。

○きりころがして

百姓が 田の真ん中にある岩に困っていたら そこを三次郎が通りかかり、百姓は、三次郎に
 「この岩を切り転がしてくれんかいにゃ」と頼むと「よっしゃまかしとけよ」と言ってねじりはちま
きをして岩にあがるとキリをコロコロ転がした。

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脇の浜

時は、いつか定かでは無い。 そうとう古い話である。
そのころ木本浦は、連日”綱たかおき”で賑わっていた。その日も若い衆たちは、2艘の網船に
乗り込み、綱を放り込みながら、半円を描いて取り囲んでいた。と その時突如 突風が巻き
起こり 海は、大荒れとなって2艘は、あれよあれよというまに、沖合遠く流されてしまった。船
には、10数名の若い衆が、乗っていたので、浜は、忽ち大騒ぎとなり、女子供の泣き叫ぶ声、
船という船は、全部出て、沖合を探し回ったが、もはや影も形も無かった。  次の日も次の日
も船を出し探し回ったが手がかりすら無かった。 3日たち4日たち、1週間にもなると、とうとう
捜索は、うち切られた。しかし家族のものたちは、今日は、戻るか明日は、戻るかと、一縷の
望みは、捨てなかった。何日もたったある日の夕方だった、沖合から「ヘンニャーヘンニャーヘ
ンニャー」と最後の力を振り絞って、懸命に櫓を押して帰ってくる声が聞こえてきた!。「それや
っぱり 戻ってきたぎゃ」 勇み立って浜へ飛び出してみたが、波音ばかりで、舟影は、どこにも
なかった。やっぱりだめかと諦めているとまたしても「ヘンニャーヘンニャー」というあの疲れ果
てた声が聞こえてきた。「今度こそ本当じゃ」又浜へ飛び出してみたが風の音ばかりで船など
全然見えなかった。その後も忘れかけた頃、あの哀調おびたかけ声が聞こえて来た。(あの子
たちは、沖の海底で、さぞや脇の浜へ帰りたがっていることじゃろう)とその冥福を祈るため、
蓮華の地蔵を1つ脇の浜の沖がよく見えるところへ建立した。その地蔵は、既に首が落ちぼろ
ぼろになっているが遠い昔の哀話を秘めたまま今も国道の陰に、密かに立っている。
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賢い犬

徳川時代も終わりに近い頃の話だが、磯崎の村に オトメさんという農婦がいた6アールほど
の谷田を持っていたが 田の見回りには、いつも紀州犬をつれていた。この犬は、とても賢く
て、主人がいけない時は、代わって田の水具合を見聞した。田に水が行き渡っていると、足を
洗って綺麗にして帰り、水が無いと泥まみれで帰ってきた。このためオトメさんは居ながらにし
て田の様子を知ることができた。ある日のこと、オトメさんは、いつものように、犬を連れて田へ
野良仕事に出かけたところ、やにわに犬がオトメさんの野良着の袖をくわえて近くの洞穴へ引
っ張り込んだ、ただならぬ犬の動きに「なんとしたことじゃろ~」と穴の中にじっとしゃがんで思
案していたところ、天狗が現れて穴のぐるりを「人臭い、人臭い、ひきさいて食べてやろ」と歩き
回るでは、ないか!やがて恐ろしい天狗も探しあぐねて姿を消したので 命拾いをしたが賢い
犬と天狗の話は、村中の話題になった。村では、天狗の出現に きもをつぶし、魔よけに土で
作った役行者の像を作って谷の大きな松の下にお祭りをした。 その祠は、今も残っている。
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呪文

不吉なことが起こるのを嫌うのは、今も昔も変わらぬもの。

猿は、去るに通じるとして 昔は、忌み嫌い、早朝に猿を見ると、去ると言うのが不吉な
ことが起こるとして山刈りや漁を休む人がいた。

山道でイタチに横きられても不吉としていた。

そんな時は、不吉を払う呪文として、次の文句を唱えると良いと伝えられている。

「いたち道切る血道切る、われゆく先は、あららぎの道 ナムアブラウンケンソワカ」
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徐福

波田須は、蓬莱山のそばで、昔 矢賀茂之助という人が、畑を開墾中、古風な焼き物を掘り出
したが、それは、徐福に関係があるのか、実に立派だったそうな。それから月日は、流れて熊
野市が、誕生したころ、新宮から山崎という人が来て磯の釜所の田園脇を掘り起こしたとこ
ろ、沢山の土器がでた!それも竹藪のそばが多かった。    この波田須は、大昔、矢賀の
部落に家が3軒しかなかった。(与八、文吉、三郎兵衛)徐福さまが難破漂着したとき、この3軒
の家は、貧しくて小さく人など入れることなど到底無理だったが 3軒の家では、交代で何くれと
なく世話をし その習慣がずっと続き、後年、徐福神の遺品を祀るにも、3軒交代で丁重に保持
してきたが、ある年、天火が落ち、惜しくも 遺品を全部焼失してしまった。余話になるが 波田
須の名前の由来は、秦の人が住む所からきたと言われる(秦住む)
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しまつな人

明治の頃金山に文右衛門というたいへんしまつな人がいたそうな。  2人の息子がいて、とて
もかわいがってた。ある日2人の子を連れて木本へヨドロ(燃料の柴)を売りに行った。当時
は、木本へ行くと言うことは、今の東京見物と同じくらい嬉しいことだった。  子は、途中であ
め玉を 買って貰うのが楽しみで喜び勇んで出かけた。帰りの道すがら花の磐のところであめ
玉をこうてくれたが、この父は、しまつな人だからこれは、「産田のとこまでやど」と言うて上の
子に1個しゃぶらせ、産田まで来ると「ここからは、」と下の子にしゃぶらせた。やっと金山へ着く
と 「まだしゃぶっちゃるんか」いうて今度は自分が残りをしゃぶり楽しんだと言う。当時は、あ
め玉も大きかった。近所で嫁入りがある時など 料理の味付けは、決まって文右衛門だった。
手伝い人が塩も醤油も使わずに「味は、どうならえ」と言うと「うんま~よかろ~」と それほどし
まつな人だった。
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大又川のガロー法師

飛鳥の古老に聞いた話によると

大又川の小西地区で河童がよく出没したらしい。このあたりでは河童はガローボーシと呼ぶが
河太郎法師がなまったのか?  このいたずら河童がある夜牛を川に引きずりこもうと角をつ
かんでウンウン言ってるところを村人に捕まった。    涙を流して「もう2度と来ないから命だ
けは、助けてくれ」と命乞いをするので、村人もほだされて許してやった。ところがこの河童は、
川に逃げながら今の今までの殊勝な態度を一変、遠くから叫んだ「忘れた頃に又来るからな
~」 誠に図太くご愛敬である
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 一本たたら

昔 大井谷に吉三という狩人がいた。

ある時、北山川の上、四の川の差し尾へ猟に行き、鹿を1頭撃って山小屋で皮をむき軒下につ
るして夕飯を食ってると、小屋の柴囲いの間からヒゲだらけのめっぽう大きな手を差し込んで
きたものがいる! これは、噂に聞いた1つタタラに違いない、たいへんなことになったと、あわ
てて鹿の肉を切ってやると、ムシャムシャ食ってしまい、すぐ又大きな手を出してくる。しまいに
片足を切って枝肉をやっても、骨ごと食ってしまい、又手を出してくる。 その早いこと、たちま
ち鹿肉は、なくなり、最後の足1本になったとき、次に食われるのは、俺だ、どうせ死ぬのならと
覚悟を決め、最後の枝肉の下に銃を忍ばせて差し出し、大きな手が枝肉をむずとつかんだそ
の時 脇腹と思うあたりへズドーンと1発ぶっ放した。    1つタタラは、異様な悲鳴を上げ、
山鳴りを起こして斜面をまくれ込んで行きその隙に 吉三さんは、うちへ逃げ帰った。それから
すぐに病みに付いてまもなく死亡した。「日浦のうぐいだまりと、四の川の差し尾にだけは、行く
な」   これが吉三さんの遺言であったという
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狸の話

狸が 化けたと言う話は、よく聞く話である

五郷の桃崎の里の小西さん方の先祖がハツリをしていて 備後の西の山へ泊まりこんでいた
ある日の夕方、里から家内が子を背負ってやってきた。 今頃何しに来たのかと聞くと、かかり
のものが来て納めないとつれて行かれると言うのでおとうに 知らせに来たと言うのである。
「そうかまあ夕飯を食え」と言い 山小屋の囲炉裏を囲んで夕食になった。ところが飯や汁のや
りとりに子を背負うたままの家内が、囲炉裏の火を避けて手を出してくる。   よく気をつけて
見ていると、背負われた子が木のコブの様で、このコブの穴に飯を詰め込んでいる。 さては、
狸が 俺をたぶらかしにきたのかと、ハツリ刀を取るより早くサーッと斬りつけた。 確かな手
応えは、あったが、狸は、化けの皮を出さず”おとうは、斬ったよ--”と泣き叫びながら家内
は、そのまま山小屋を飛び出した。   さては、狸では、なく本当の家内であったか?と泣き
声のあとを追い追い里の自分の家まで走り付いた。家に帰ってみると、家内は、何事もなくケ
ロリとしていて、この夜中に何事かと聞く。 実は、これこれと山小屋の一件を話して、その夜
は、家に泊まり、翌朝調べたら、大きな古狸が床の下で血まみれになって 死んでいたとい
う。
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高坊主

昔、2人の漁師がイサキを釣りに言ったときのこと

夜の妖気がシンシンと見に迫るので、ひょいと見ると夜目にも6尺豊かな高坊主が磯に立って
いる! 気の強い方の漁師が「セイツキ」を持って5、6歩追いかけると高坊主は、それだけ逃
げる。又追う、又逃げるヲ繰り返してるうち「センダイ待て~」と大声で怒鳴る友の声に正気付
いて 立ち止まったら、すぐ下は、怒濤さかまく絶壁であったという!  おそらく海の妖怪のた
ぐいだったのであろう。
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大馬神社 

創始は明らかでないが、平安時代から祀られている神社で、市内で最も古い文明10年(1478)
の棟札がある。

 恒武天皇(737~806)の頃、坂上田村麻呂(758~811)がこの地方を荒らす賊を討ち、賊の
頭の首を地中に埋め、その上に社殿を建てたのが始まりといわれる。その後、智興和尚という
人がこの話を伝え聞い参詣しようとしたところ、田村麻呂の霊が現れ案内した。霊は大きな馬
に乗っていたことから大馬神社と呼ばれるようになったという。元は大馬地区の産土神であっ
たが、現在はふもとの八幡神社が遥拝社となっており、現在は井戸町全体の氏子組織によっ
て祀られている。毎年順番で当屋を決め、 当屋になった組が1月6日の祭礼をとりしきる。
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水大師

井戸町の奥 曽山、木本町から大馬へ2キロほどの山道を行くと水大師がある。今は、寂れた
が、昔は、たいへんにぎわったもので 縁日の21日には、参拝者が沢山きたものだ。このため
 当時でも名物で人での多かった木本花火大会なども 人集めの為、水大師の縁日である21
日に合わせて開いた程だった。旧の3月21日の大祭ともなると 近郷近在は、勿論、遠くから
の信者も来て三千人あまりの人手を見せたこの地方最大の祭りと言われたものだ。ここの祭
りには、千本のぼりが付き物だった。願い事をする信者がそれぞれ1人千本の小さな紙ののぼ
りを参道の両側にたて並べ それが風になびいていた、大東亜戦争中は、凄かったと当時の
堂守が 話していた。当時は、身内の無事なる帰還を願っていたのだ。   当時は勿論、露
天、見せ物もずらりと並んでにぎわった。この霊水は、弘法大師に教えられたと言うお堂内の
わき水で、雨が降り続いても増えず、日照り続きでも減らずと言う不思議なわき水で、御詠歌
には、


「ありがたや~仏やすまの法の水、汲めどもつきぬ薬なるらん」